 きみたち、金栗翁の名と共に記念撮影だ。
*金栗翁 金栗四三(かなぐり しそう) 1911(明治44)年、金栗は翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋で当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となった。  む、かじられている気がする・・・??
 九州産交の産太くん、打ち合わせの時間だったね。
 ほう、4-1-4-1システムではなく、やっぱり4-4-2かね。
 あか牛くんはどう予想する?
 キックオフ前に金栗翁に敬意を表し・・・
*金栗翁 金栗四三(かなぐり しそう) ストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れたところを通りかかった人が発見し、近くの農家で介抱された。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国。金栗が倒れた直接の理由は日射病であるが、それ以外にも様々な要因があった。 時は流れて1967(昭和42)年3月、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。 招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。 54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。  詰め掛けたサポーターと共にスタジアムに入ります。
 打ち合わせメンバーで並ぶ3人。
 真っ赤な染まるスタジアムにふれきんちゃん(長洲町)が映えます。
 お、来た来た。
 選手の皆さん、正々堂々がんばりたまえ。
 ・・・
 引き続きお見送りだ。
 さぁ、客席からロアッソの応援だ。
 サポーターの皆さん、90分間参戦しましょう!
 ロアッソタオルマフラーをひらひらさせながらスタジアム内を歩くヴィーブルくん。
 第10回サッカーフェスタ、時は満ちた。
 皆さん!観戦、いや参戦ですぞ。
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