昭和6(1931)年、大阪毎日新聞社本山彦一社長の後援のもと大塚了城(りょうじょう)・坂本経尭(つねたか)両氏を中心とした組織的な調査がこの地域で初めて行われました。本遺跡の時期は、縄文時代後期から弥生時代になります。
出土した縄文土器は、縄文後期の御領式(ごりょうしき)・三万田式(みまんだしき)土器です。土器の内側からは、籾(もみ)の圧痕も発見されました。また、石器では石斧、石包丁・石鏃・石匙(いしさじ)が出土しました。さらに、縄文時代の住居跡と思われる場所からは、炉の跡(調理をした痕跡)が確認されたと伝わります。
合志市の縄文時代の遺跡は、桑鶴遺跡付近を起点に、塩浸川・上庄川流域に多く分布し、川沿いの台地に古くから集落があったことが分かります(下図)。
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遺跡地図 |
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御領式土器(二子山遺跡) |
所在地:合志市 福原・出分
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位置図(PDF:39.1キロバイト) 