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竹迫五山

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 五山というのは、禅の臨済宗において最高の格式を持つ寺院のことで、インドに起こり中国を経て日本に伝わり、鎌倉幕府によって建長3年(1251)に鎌倉五山が制定されました。鎌倉幕府の滅亡後は京都中心の五山が定められたが、僧侶たちによって始められた五山文学は中世文化の中心となったと言われています。「このような格式高い五山制度が、九州の片田舎竹迫にあったというのは、驚きとともに誇りにして良いことの一つである。」と「合志町史」に記されています。いずれも、明治初期の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)により、廃寺となりましたがわずかながら小庵が残っているものもあります。竹迫五山がいつ頃、定められたかは不明です。

城山長福寺跡
 
城山長福寺跡(合志三十三観音 二十五番札所)
 詳細は不明。「竹迫城絵図」には「天正の頃の墓あり」とあります。長福寺観音堂は、竹迫城跡公園の敷地内南に所在しています。                                                                        
 
国泰寺跡
青龍山国泰寺跡(合志三十三観音 二十六番札所)
 竹迫日吉神社の前に位置しています。「竹迫城絵図」には、「竹迫氏の位牌どころか」とあります。大永八(1528)年の卍板碑があります。令和2年に行われた発掘調査において中世の祈りを行った遺構がみつかりました。(詳細は、国泰寺跡発掘調査速報をご覧ください)
 
 
金龍寺跡
薬王山金龍寺跡
 出分の金龍山にあり、本尊は薬師如来で天台宗の道場であったといわれています。
 天正13(1585)年焼失、その後延宝年間(1673~1681)に再興されたが明治初年廃寺になったと伝えられます。現在は、竹山となり、数基の墓石がみられます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清寿院跡
紫君山清寿院跡(合志三十三観音二十六番札所)
 合志小学校の西側に小堂と石造物が残っています。そのうちの1つ天文期の板碑には「当寺中興玉誉智▢大徳壽位」とあり、16世紀に再興したことが分かります。小学校の建設時、陣ノ内遺跡発掘調査が行われ、竹迫氏館跡から清寿院の敷地に変わったことが確認されました。
 「肥後国誌」に「古石碑 清寿院境内二アリ銘二云、清寿院殿仙屋壽公大姉 合志蔵人母 天文四末天三月十五日ト記ス」とあることから合志氏の菩提寺であった可能性が考えられます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
金福寺跡
金福寺跡
 越前国(今の福井県)永平寺の末寺といわれ、明治6(1873)年、廃寺になったと伝えられるが、詳細は不明です。現在は地元で小堂を祀り、その堂裏に当時の僧侶の墓碑がみられます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 



 

 

 

 

 

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