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合志親為(こうしちかため)肖像図(市指定文化財)

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合志親為肖像図
 合志氏第15代の城主である合志伊勢守親為(こうしいせのかみちかため)は、菊池の赤星筑前守重隆(あかほしちくぜんのかみしげたか)の二男として生まれ、名を親賢(ちかかた)といい、蔵人大輔(くらんどだいゆう)と称していました。
 のちに合志家第14代合志高久の養子となりましたが、歴代城主の中でも特に強い武将であったと伝えられています。
 親為は天正13(1585)年10月に死亡しており、この肖像図は没後153年経った元文3(1738)年10月19日に模写したと記されています(医音寺跡には、親為が、生前に自らの極楽往生を願って建てた板碑(いたび)が残されています。これは菊池市の泗水住吉にある宣頓寺(せんとんじ)の逆修碑と同じ形式で江戸時代のものです)。現在、この肖像図は幾久富の今町という地区で大切保管されていますが、なぜ同集落で保管されるようになったかは不明です。掛軸の最上部の裏面には、大正4年の大塚惟一(大塚惟精の父)による記載が残っており、そこには曾祖父の大塚惟矩(これのり)※1が親為の画を借りて、画工に命じて模写したものだとあります。現在、肖像図の複製を合志市歴史資料館に展示しています。親為については以下にあるようにまだ最後の城主であったかが定かでなく、研究の余地があります。
 
親賢(宣頓)=親為※2
        |
                    親重(隆重)※3
               【鴨川説系図】

※1 大塚惟矩は竹迫城絵図(文政8(1825)年作成)を描いた人物

※2 親為は肥前の竜造寺氏に敗れた結果、親重に家督を譲ったという説があります。

※3 島津氏家臣の上井覚兼日記には、最後の領主である親重の名があり、父が宣頓であることが分かります。系図にある隆重は、史料で名前がみらませんが最後の領主である親重であったとことも考えらます。 


肖像図複製の所在地:合志市福原2922(合志市歴史資料館内)
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